俺は備中の平次郎。名前の通り備中(岡山県西部)では、ちったあ名の知れた将棋指しよ。今日は、ここの管理人さんに、江戸時代の将棋指しの暮らしっぷりについて、話してくれと云われたんで、御用とお急ぎでない方は聞いていってくんな。
 俺の時代の将棋指しってのは大きく分けて二種類だ。一つが玄人、こいつあ将棋家の将棋指しで例え弱くても玄人よ。こいつらは、将軍様から米もらって優雅に暮らしているやつらだ。もう一つは素人だ、いくら強くても将棋家の人間じゃなきゃあ素人だ。棋聖と云われ、門弟三千人と言われた天野宗歩だって素人なんだからな。さて素人でも色々あって大抵は別に職業をもっている奴が多い。帯屋宇兵衛・炭屋大助・藍玉屋金兵衛とかは、職業自体が呼び名になってる。俺も浪花で商売しながら、印将棋(賭け将棋)で食ってたのよ。けどなあ、やっぱり江戸に出て将棋の修行をしなきゃ駄目だと思ったのよ。で、三十になったのをきっかけに安永の年(1776年)に、身の回りを整理して、江戸に向かったんだが、そん時の話を今日はしようじゃねえか。
 俺は残念だがそんなに強ええ将棋指しじゃねえ。だから、本当なら東海道で江戸に向かうのが一番なんだが、何分印将棋で日銭を稼ぎながら行かなくちゃならねえ。で、東海道だと強い将棋指しがいるから、負けるかも知れねえけど、木曾街道なら俺に勝てる将棋指しは居ねえ筈だし歓迎してくれるに違いないと、木曾街道を行ったのが運の尽きよ。
 中津川の宿についたころにゃあ、すっかり一文無しよ。こうなりゃ地元の将棋好きから稼ぐしかねえじゃねえか。
「兄さん、この辺に将棋の強い人はいないかい?」
「ここには居ねえが、ここから十里(40km弱)ばかり山奥の飛騨の何々村は将棋の好きな人も多くて、そこの名主どんは強いという話だよ。」
 山道を十里は恐れ入るが、背に腹は変えられねえんで、山奥に入ったのよ。いくつも峠を登り、坂を下ったかわかりゃしねえが、1日がかりでその村について名主の家を探したが、1軒の家が三丁(一丁は約100m)も五丁も離れている上に、百姓や木こりの家ばっかで中々見つからなかったんで、やっと見つかった時にはもう夜中の八ツ(今の午後10時)だったぜ。
 確かに名主の家だけあって家は大きいが真っ暗なんで「お頼み申します」と呼んだら下男みたいな奴が出てきたんで「自分は大阪の将棋指しだが、中津川で当家のご主人の将棋の評判を聞き、是非お手合わせ願いたくお尋ねした次第。山道を歩き続けやっと到着したので、何卒お取次ぎ下さい。」と云ったら。「その旦那は隠居所にいるからこれから案内します」と言うんで付いて行くと、本家から又一丁程真っ暗の中を提灯も無しにヒデ松を箸のように割いた物に火を点けて、かすかに道を照らして木の根、草を踏み分けてやっとのことで隠居所さ。
 隠居所で主人に会ってみると、幸いにも大喜びしてくれて「明日は村の将棋好きを集めて稽古してもらいましょう」と言ってくれたのさ。
 俺達将棋指しにとって大事なことは、一に相手が居る事。二に相手が歓迎してくれることよ。この時は二つとも揃って運が良かったって訳よ。
 しかしまあ、本当に田舎で行灯も無くて、囲炉裏の中に蒔きをくべるしか明かりが無いし、食事と言やあ又本家から取り寄せに時間はかかるし(30分〜40分かかったらしい)しかも出てきた物が、粟の飯に焼き味噌、外に蜂の子の辛く煮付けたものや、ナメクジの酢の物という人間離れした食い物で、粟の飯と焼き味噌以外は食えなかったぜ。でも蜂の子はこの地方じゃご馳走なんだぜ。
 次の日、村内の将棋好きを集めて稽古したが、一番強い主人でさえ俺に飛車落ちでも相手にならない位弱いんで、他の連中は六枚落ちでもどうかという手合ばかりで「こんな将棋の強い人は初めてだ!平次郎さは日本一の将棋指しだ!」と崇めてくれるのは気分がいいけど、ご馳走が蜂の子とナメクジでは耐えられねえし、第一江戸にいかなきゃならねえからな。二日ばかり後に暇乞いしたら、主人が恭しく紙に包んで謝礼の金をよこしたんで、一両(今の貨幣価値で4万円弱位か?)もあるかと思ったら南鐐一つ(5000円弱か?)だったのにゃあ驚れえたよ。主人の態度からして大金を出したつもりみたいじゃあ、腹もたてられねえ。
 
           (上の絵は安藤広重画「木曾街道六十九次之内福島」です)
 そんな訳で三日後に木曾の福島に着いた時には殆んど無一文で、どうやって江戸迄行こうかと困ったね。だけどその時丁度、備前国(岡山県)のお大名池田様が江戸へ参勤の途中で、福島に泊まっていたんで、その供回りに江戸まで同道を頼んだのよ。池田様と云えば将棋好きで有名なお方で、早馬の様な俊敏な将棋を指されるって話だ。そんな訳で家中も将棋指しに寛容だったんで、「何もしないで同道は無理だ、槍持ち人足になるなら連れてってやろう。」と言うんで、槍持ち位大したこと無えと思って、槍持ち人足として加わったのよ。一日二日は苦にならなかったが、所詮将棋指しには駒より重いものを持つのは無理だね、五日六日と経つに従って、肩が痛んで我慢出来ねえで途中で、とんずらしちまったのさ。
 やっと江戸に着いたころにゃあ、また無一文でその日は飯も食えずに四谷に夜の七ツ(午後8時)に入った時にゃあ、腹ぺこでもう一歩も歩けねえと思ったが、ふと見ると傍らに一軒の蕎麦屋が、、、。その臭いが鼻をついて、よけい腹の虫が鳴いて我慢出来ねえ。懐を探しまわると、なんとか青銭二個が出てきたのよ。(青銭一個十文で計二十文。一文は4円弱なので計80円弱)で、早速蕎麦屋に飛び込んで、一膳注文した。一膳十六文なんで二膳は食べれねえ。だけど腹は全然膨れねえ。で、仕方なく蕎麦湯を五、六杯も飲んで腹を膨らませたよ。蕎麦屋の親父があんまり蕎麦湯飲むもんで、じろじろ見てたっけなあ。動けるようにはなったものの、泊まる所がねえ。ふらふらと麹町まで彷徨い歩いていたら「将棋指南所」の看板が出てる家があった。地獄に仏とはこのこった。早速その家に飛び込んだのよ。ところがなんとその家が、詰将棋ではあの大橋宗英ですら一目置いている、桑原君仲の家だったのには驚れえたねえ。俺の身の上に大いに同情してくれて、その晩から泊めてくれて、江戸で身が立つように世話してくれたんだから、命の恩人よ。将棋は俺の方が、ちいとばかり強いんだけど、実戦集には桑原君仲の勝った将棋を多く載せられたのは、腹が立ったが、恩人だけに文句は言えねえ。管理人さんの話だと後世に残っている俺の棋譜は、桑原君仲との将棋くらいらしいや。あの将棋だけじゃあ四段の桑原君仲にも勝てねえ、弱い将棋指しだと思われちまうのは悲しいことさね。まあ、殆んどの奴が棋譜も残せず死んでいったことを考えりゃあ、棋譜が残ったことだけでも、いいことなのかねえ。
 兎も角、江戸に着いて行き倒れ寸前になった事を忘れねえように、毎月その日にゃあ必ずその蕎麦屋に行って、一膳の蕎麦を喰い、蕎麦湯を飲むことが習慣になったって訳よ。
 まだまだ話してえこたあ一杯あるが、そろそろあの世からお迎えらしいや。へえ、お退屈様、そんじゃな、あばよ。 


 「平次郎珍道中」いかがでしたか?備中平次郎、別名・山川平次郎は五段だったと言われています。将棋上の業績は全く無いのですが、上記の面白い逸話は伝わっています。昔の将棋指しの生活が垣間見られて、小説の出来は兎も角として、面白いと思います。
 また、悪乗りで安藤広重の絵も入れてみました。安藤広重と言えば、東海道五十三次の絵が有名ですが、木曾街道六十九次の絵も素晴らしいと思います。でも、一般には全然知られて無くて惜しいので、挿入してみました。
 では、次に備中平次郎と桑原君仲の将棋を載せてみます。


 土居市太郎によると、平次郎の入った蕎麦屋は「馬方蕎麦」といって、蕎麦の太さが杉箸ぐらいあるので有名な蕎麦屋で、大正時代ころまでは残っていたそうです。

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