特選譜

 特選譜を将棋史の中に位置付けしつつ、載せてみたいと思う。尚、年表作成にあたっては、「日本将棋集成・窪寺紘一」「将棋文化史・山本享介」「将棋の駒はなぜ40枚か・増川宏一」他を参照し、誤りを訂正しながら管理人が作表いたしました。
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西暦 和暦 名人 出来事
753 天平勝宝五年 遣唐使吉備真備が中国から将棋を将来する?
1058 天喜六年         平成五年に奈良市興福寺の旧境内から当年銘を持つ木簡とともに将棋駒が出土する(最古の駒)
1058〜1065 康平年間 『新猿楽記』に「将棋」と見える(文献上の初見)
1253頃 建長五年頃 「鳥獣戯画」丙巻に将棋を指す場面あり(最古の将棋絵図)
1435 永享七年 「看聞御記」に小将棋を指すとの記述あり
1532〜1555 天文年間 後奈良天皇、小将棋から「酔象」の駒を除かせたとの言伝あり
1558〜1570 永禄年間 昭和48年に出土した朝倉駒から駒数42枚の小将棋が存在したことが立証される
1587 天正十五年 「家忠日記」に現在の将棋の駒組図の書き込みあり。
1595 文禄四年 「御湯殿上日記」に豊臣秀吉、王将を大将に改められたし、と申し入れたとの記載あり
1602 慶長七年 一世
初代
大橋宗桂
初代宗桂、後陽成天皇に山科言経を介して詰将棋五十番の本を献上(現物不明)
1607 慶長十二年 六月、初代宗桂が本因坊算砂とともに家康と秀忠に招かれて将棋を披露する。「古写本将棋集」に棋譜あり(最古の棋譜)
1608 慶長十三年 一月、初代宗桂が本因坊算砂とともに豊臣秀頼に招かれて将棋を披露する。「象戯鏡」に棋譜あり
1612 慶長十七年 二月、宗桂、家康から五十石五人扶持を賜る。将棋所の起こり
1596〜1615 慶長年間 宗桂の「将棋造物」(通称「将棋図式」)が出版される(最古の棋書)
1619 元和五年 二月、二代宗古と算砂の十五番指しが行われる。第三局は最古の持将棋
1634 寛永十一年 三月、宗桂没・80歳。二世宗古家を継ぐ(59歳)
1635 寛永十二年 二世
二代
大橋宗古
十二月、大橋分家・伊藤家が創設され将棋三家は世襲となり、家禄二十石を賜る。
1636 寛永十三年 宗古が「象戯図式」(通称「将棋智実」)を出版。林羅山の序文あり。巻末に”将棋治式三ヵ条”を示し、将棋ルールを成文化する。
1637 寛永十四年 三月、伊藤家初代宗看紹尊の三十番指し始まる(最終結果、宗看の20勝10敗)
1637 寛永十四年 営中(江戸城)で将棋の上覧あり。御城将棋の始まりか?
1641 寛永十八年 宗看、萩野真甫の挑戦を退ける(宗看の7勝2敗)
1646 正保三年 三代宗桂「象戯作物」(通称「将棋衆妙」)出版
1648 慶安元年 分家初代宗与(宗桂の弟)没
1649 慶安二年 宗看の「象戯図式」(通称「将棋駒競」)が出版される。林羅山の序文
1652 承応元年 八月、宗看が角香交りで檜垣是安と戦う。(吐血の一戦)
1653 承応二年 「仲古将棋記」が出版される。最古の実戦集
1654 承応三年 三世
初代
伊藤宗看
七月、宗古没79歳。伊藤宗看、3世名人襲位、37歳。
1661 万治三年 大橋本家三代宗桂が没する。
1662 寛文二年 五月、大橋本家宗傳没し、大橋本家断絶の危機に瀕する。
1662 寛文二年 十月、碁・将棋の者は寺社奉行の所属となる
1662 寛文二年 御城碁・御城将棋が江戸幕府の年中行事となる
1663 寛文三年 「象戯鏡」が出版される(実戦集)
1664 寛文四年 二月、宗看が嫡子宗銀を大橋本家に送って(後の五代宗桂)同家を再興する。(これにより、逆に伊藤家に嫡子無くなる)
1667 寛文七年 宗看と大橋分家三代宗与が江戸に屋敷を賜る
1669 寛文九年 五代宗桂「象戯図式」(通称「将棋手鑑」)を献上
1672 寛文十二年 御城将棋に内調(内指し)制始まる
1661〜1673 寛文年間 将棋三家が京都から江戸に居を移す
1680 延宝八年 「御城将棋留」の記録始まる
1673〜1673 延宝年間 質屋の看板に将棋の駒形を使う
1682 天和二年 「御城将棋留」に初めて、相手組と勝敗記すも棋譜なし
1690 元禄三年 「御城将棋留」に棋譜の記載始める
1690 元禄三年 宗看が門弟鶴田幻庵を伊藤家の養子とする
1691 元禄四年 四世
五代
大橋宗桂
宗看、家督を辞し大橋本家五代宗桂が四世名人に襲位する。(56歳・唯一の生前譲位)幻庵を伊藤家二代宗印とする
1692 元禄五年 五代宗桂「将棋秘伝」を記す(初の定跡書?)
1694 元禄七年 十一月、宗看没、77歳
1695 元禄八年 「近来象戯記大全」出版される(初めて民間人の詰将棋掲載)
1697 元禄十年 宗桂が免状を発行する(最古の免状)
1697 元禄十年 「作物象戯大矢数」出版される(初の民間人の詰将棋作品集)
1698 元禄十一年 三月宗桂が「象戯百箇条之伝」を執筆
1698 元禄十一年 西沢貞陣「将棋指覚大成」出版。一部に棋譜の改作あり。
1700 元禄十三年 二代伊藤宗印[象戯図式」出版される(通称「将棋勇略」)
1700 元禄十三年 「諸国象戯作物集」に芭蕉作の将棋の俳句2首載る
1688〜1704 元禄年間 萩生徂徠が広将棋を創案する。
1688〜1704 元禄年間 この時代、盲人棋客輩出する。石田検校は”石田流”の創始者
1706 宝永三年 「象戯洗濯作物集」出版される
1707 宝永四年 「象戯網目」出版される。古作物や盲人棋士の棋譜あり
1709 宝永六年 十月、大橋本家六代宗銀(16歳)・伊藤印達(13歳)の五十七番指し始まり、史上初の差込み制を採用する。
1711 正徳元年 宗印門の宮本印佐・有浦印理が六代将軍家宣に召し出され百五十俵を賜る
1713 正徳三年 五代宗桂没。78歳
1713 正徳三年 五世
二代
伊藤宗印
伊藤家二代宗印五世名人を襲位
1713 正徳三年 山崎勾当の「将棋亀鑑」出版される
1713〜1714 正徳三年〜
四年
御城将棋が行われなかった
1716 享保元年 八代将軍吉宗が御城将棋の日を毎年十一月十七日と定める
1716 享保元年 大橋分家三代宗与が「象戯作物」(通称「将棋養真図式」)を献上する
1717 享保二年 御城将棋の大橋宗a(四代宗与)と伊藤印寿(三代宗看)の対局は初の「御好」と伝えられている
1721 享保六年 原喜右衛門「象戯名将鑑」を出版。偽作集
1722 享保七年 原喜右衛門、宗印に破門される
1723 享保八年 十二月、二代宗印没。
1723 享保八年 六世
三代
大橋宗与
十二月、大橋分家三代宗与が六世名人を襲位(75歳は最高齢)
1724 享保九年 伊野辺看斎「象戯手段草」出版される
1727 享保十二年 囲碁・将棋の事績調査があり、由来書を提出する
1728 享保十三年 宗与没。81歳
1728 享保十三年 七世
三代
伊藤宗看
伊藤家三代宗看が図式献上せずに公命により七世名人になる。(22歳は最年少)
1729 享保十四年 宥鏡編「象戯勇士鑑」が出版される
1730 享保十五年 御城将棋無し
1730 享保十五年 吉宗が町火消の目印に将棋駒形を採用する
1732 享保十七年 筑前百助・福島萬兵衛の平手戦あり
1734 享保十九年 宗看、名人襲位後に「象戯図式」献上。(通称「詰むや詰まざるや」「将棋無双」)
1735 享保二十年 宗看・名村立摩の争い将棋(角落・左香落)あり
1716〜1736 享保年間 江戸の鱗形屋が懐中将棋(紙製の盤と駒)を売り出して好評を博する
1737 元文二年 五月、囲碁・将棋の席次争いが起こり、大岡越前守の裁断により本因坊家は一位、宗看は二位と定められる
1745 延享二年 四代大橋宗与・伊藤看寿の右香落あり。(魚釣りの一局)
1752 宝暦二年 添田宗太夫「象戯秘曲集」出版される
1755 宝暦五年 伊藤看寿、「象棋図式」献上。(別名「象棋百番奇功図式」通称「将棋図巧」)
1756 宝暦六年 伊藤看寿・保原加茂右衛門の四枚落あり
1758 宝暦八年 「将棋独稽古」出版される
1760 宝暦十年 八月、伊藤看寿没、42歳。贈名人
1761 宝暦十一年 四月、伊藤宗看七世名人が没したが(56歳)後継者無く、初の名人位空位となる。
1751〜1764 宝暦年間 名人空位
第一回
二十七年
三大和算家の一人の久留島喜内の作品集「将棋妙案」「橘仙貼璧」成立?
1765 明和二年 八代大橋宗桂「象戯図式」(通称「将棋大綱」)献上するも、名人には成れず
1767 明和四年 十代将軍家治が御城将棋の席で将棋家三家の者と近習衆との「御好」(玄素戦)を命ずる。天明五年までに八十二局
1775 安永四年 御城将棋無し
1779 安永八年 御城将棋で大橋分家六代宗英が伊藤家五代宗印に左香落されで対局する。(鳥刺しの第一号局)
1772〜
1781
安永年間 備中ノ平次郎上京
備中ノ平次郎・桑原君仲の将棋あり
1784 天明四年(?) 七月(?)、十代将軍家治「将棋攻格」著す
1785 天明五年 御城将棋の「御好」中止される
1786 天明六年 大橋本家九代宗桂が「象戯図式」(通称「将棋舞玉」)献上(最後の図式献上)
1789 寛政元年 八世
九代
大橋宗桂
十二月、宗桂が寺社奉行松平右京亮から将棋所(八世名人)を言い渡されて名人に襲位、46歳。また、城中の席次は本因坊家についで二位と定められる
1790 寛政二年 御城将棋の宗桂・宗英の平手戦は「稀有の名局」と伝えられる
1791 寛政三年 山東京伝「娼妓絹篩」を出版する(戯作本)
1792 寛政四年 桑原君仲「象戯奇正図」(通称「将棋玉図」)出版される
1799 寛政十一年 八月、大橋宗桂八世名人没、56歳。
1799 寛政十一年 九世
六代
大橋宗英
大橋分家六代宗英、九世名人襲位、44歳。
1801 享和元年 滝沢馬琴「春駒将棋行路」出版
1804 文化元年 福島順喜「将棋絹篩」出版
1809 文化六年 式亭三馬「浮世風呂」出版。縁台将棋の有様を描く。
1809 文化六年 福島順喜と女流棋士第一号の大橋浪女の飛車落戦あり
1809 文化六年 十一月、宗英、御城将棋の日に没、54歳。図式献上の慣例絶える。後継者なく、名人位二度目の空位に
1810 文化七年 名人空位
第二回
十五年
宗英の「将棋歩式」出版
1814 文化十一年 大橋本家十代宗桂の「将棋明玉」出版される。玉将説の朝川善庵の序あり
1816 文化十三年 宗英の「将棋相懸集」出版
1816 文化十三年 天野宗歩生る
1818 文政元年 十代宗桂没、44歳。
1820 文政三年 天野宗歩、十一代宗桂に入門
1821 文政四年 御城将棋の平手戦で、大橋英俊(柳雪)が初めて美濃囲いを用いる
1823 文政六年 六代伊藤宗看撰「将棋絶妙」出版される
1825 文政八年 十世
六代
伊藤宗看
伊藤家六代宗看、十世名人を襲位、58歳(最後の将棋所)
1828 文政十一年 和中氏の「象戯童翫集」出版される
1830 天保元年 大橋分家二代目宗英が病気で廃嫡、下野して大橋柳雪を名乗る
1832 天保三年 九月、大橋柳雪撰の「将棋精妙」出版される
1833 天保四年 十一月、河島宗臨、将棋家以外の人で初めて御城将棋を勤む
1839 天保十年 大橋鐐英(後の宗a)の「将棋早指南」出版される
1839 天保十年 大橋柳雪没、45歳。
1840 天保十一年 九月、大橋本家十一代宗桂と池田菊女の飛車落戦あり
1843 天保十四年 九月、伊藤宗看十世名人没、76歳。後継者無く、名人位は3度目の空位へ
1846 弘化三年 名人空位
第三回
三十五年
三月、孝明天皇が山科言成を召して将棋を指す
1849 嘉永二年 桑原君仲「将棋極妙」出版される
1852 嘉永五年 天野宗歩、御城将棋に初勤し、六代伊藤宗印門下・和田印哲と対戦。同日、大橋(分家)宗aと御好を命じられる
1853 嘉永六年 一月、天野宗歩の定跡書「将棋精選」出版され、新定跡として高く評価される
1858 安政五年 一月、伊藤家八代宗印が同家二代宗印の図式集「将棋精妙」(別名「不成百番」)を出版する
1859 安政六年 五月、宗歩没、44歳。
1861 文久元年 十一月、御城将棋が当年で幕を閉じる
1861 文久元年 将棋錦絵の歌川国芳没、65歳
1868 明治元年 将棋三家が幕臣離れる
1869 明治二年 三月、伊藤家八代宗印が百番出版校合会を開催し、将棋界再建に着手
1872 明治五年 東京府は将棋・碁家元の家禄返還を命ず(家禄を失い、屋敷を返上、各家に資金百円ずつ賜る)
1872 明治五年 一月、雑誌「新選将棋月報」が創刊される
1877 明治十年 三月、大橋分家九代宗与が罪を得て入獄する
1877 明治十年 四月、宗印が天野宗歩実戦集「将棋手鑑」を出版する
1879 明治十二年 十一世
八代
伊藤宗印
十月、宗印が十一世名人を襲位する、54歳
1881 明治十四年 十一月、九代大橋宗与獄死し、大橋分家断絶
1881 明治十四年 宗印が魁進社を組織して雑誌「将棋新報」を創刊
1891 明治二十四年 五月、宗印が魁進社を九々社と改組して雑誌「将棋新誌」を創刊
1893 明治二十六年 一月、伊藤宗印十一世名人没、68歳。伊藤家断絶。名人位空位
1898 明治三十一年 名人空位
第四回四年
一月、新聞「万朝報」が将棋欄を設ける
1898 明治三十一年 二月、新聞「時事新報」が将棋欄を設ける
1898 明治三十一年 十二世
小野五平
四月、小野五平が十二世名人襲位、68歳。両国・中村楼で披露宴を催す
1902 明治三十五年 九月、小管剣之助が宗印の実戦集「将棋名家手合」を出版
1904 明治三十七年 松本朋雅、二六新聞に「日露戦争詰将棋」十七番を連載
1905 明治三十八年 木村義雄生る
1908 明治四十一年 九月、「万朝報」が「高段名手勝継将棋」と銘打って月六番の実戦譜を掲載し、新聞将棋のパターン作る
1908 明治四十一年 十二月、三木愛花により月刊誌「将棋新報」が創刊される。大正十二年関東大震災により休刊するまで176号を発行
1909 明治四十二年 関根金次郎が将棋同盟会(後、将棋同盟社)を設立
1910 明治四十三年 飯塚力蔵、駒台を発案する
1910 明治四十三年 七月、阪田三吉七段を盟主とする関西将棋研究会が設立される
1910 明治四十三年 九月、井上義雄が将棋同志会を設立
1910 明治四十三年 十一月、大橋本家十二代宗金が没、旧将棋三家はすべて断絶
1912 明治四十五年 二月、東京将棋社が設立
1913 大正二年 四月、阪田が関根に「香車次第」の争い将棋挑む。(「銀が泣いている」の一局あり)
1918 大正五年頃 野田圭甫、大道将棋を始める。暫くして荻野竜石も始める
1917 大正六年 六月、門弟の土居市太郎の八段昇進を巡って溝を生じた為、関根が将棋同盟社を離脱して東京将棋倶楽部を設立
1917 大正六年 十月、阪田、関根を破るも、土居に破れ、関東制圧成らず。(関根名人を認めざるを得ないことに繋がった)
1919 大正八年 五月、阪田八段が木見金次郎七段披露の席で土居八段と対局し阪田流向飛車を採用
1921 大正十年 一月、小野五平十二世名人没、91歳
1921 大正十年 十三世
関根金次郎
五月、関根金次郎が十三世名人に襲位、54歳。最後の世襲名人
1924 大正十三年 九月、関根派・土居派・大崎派が合同して東京将棋連盟を結成
1925 大正十四年 二月、持時間制が導入される
1925 大正十四年 三月、阪田三吉、関西名人を自称し、中央棋界と絶縁状態に
1925 大正十四年 八月、花田長太郎八段・木村義雄七段戦を初めてラジオで放送
1922〜1926 大正末期 堀内宗善が大道詰将棋を始める(?)
1927 昭和二年 五月、東京将棋連盟を改組して日本将棋連盟が設立される(会長・関根金次郎)
1928 昭和三年 三月、木村義雄の「将棋大観」が出版される
1928 昭和三年 九月、奨励会出来る
1931 昭和六年 加藤治郎により早大に将棋研究会出来る。大学将棋の始まり
1935 昭和十年 三月、関根引退し世襲名人制を廃して実力名人制へ
1935 昭和十年 神田辰之助の昇段問題で連盟分裂
1936 昭和十一年 六月、棋界合同し将棋大成会を設立する
1936 昭和十一年 十一月、大成会が小管剣之助に名誉名人を贈る
1937 昭和十二年 二月、阪田三吉・木村義雄戦で阪田破れる(南禅寺の決戦)
1937 昭和十二年 三月、阪田三吉・花田長太郎戦で阪田破れる(天竜寺の決戦)
1937 昭和十二年 九月、博文館から「将棋世界」創刊される
1937 昭和十二年 十二月、木村義雄、名人位争奪特別リーグ戦で第一位を確保して実力制第一期名人となる

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