斎藤栄・小説天野宗歩風「名村立摩争将棋」

一 悲壮な名村
 「この将棋負ける訳にはゆかぬ、たとえ指し過ぎであろうと、わしはこの二四歩に一局を賭ける。」
名村流として後世に名を残す名村流が指されたのは享保二十年六月二日のことであった。

二 加賀藩添田宗太夫宅にて
 時は争い将棋から半年程前に遡る。場所は、加賀藩添田宗太夫宅である。この時代加賀藩は前田侯の統治の下、文武奨励がされ、特に将棋が盛んであった。当時の将棋有段者は江戸の次に加賀が多かったそうで、今からは考えられないほど、将棋が盛んであったらしい。しかも将棋家以外の在野では当時最高段位は七段だったわけだが、七段の当時在野の第一人者である添田宗太夫をお抱え棋士とし、更に最高弟である名村立摩六段まで擁していたのであった。
 「師匠、お呼びとの連絡をうけ、参上つかまつりました。」
 名村の挨拶を聞いた添田は名村に向かって、こう語りかけた。
 「七段になるため、争い将棋をしに、江戸に出るそうじゃな。」
 「師匠には前から私の望みは知っていると思っておりましたが、、、。」
 「何故そのような無理をする?そなたならその内、放っておいても七段になれようものを。」
 「私より力量の劣る有浦印理や宮本印佐が七段で、私が六段で彼らに香を落とされるのは我慢なりませぬ。」
 「名人の宗看が黙って認めるはずがなかろう。宗看に角香交で勝つ自信があるのか?」
 「ありまする!角なれば問題ならず、香とて決して我が力が後れをとっているとは思いませぬ。」
 「思い直す気は無いようじゃの、、、。」
 「そのことなれば、今迄も師匠にはご説明したはず。その用な御用でしたら、失礼いたしまする。」
 「まあ、待て本題はこれからよ。その方が江戸に出るにあたり、前田侯よりお言葉があるそうじゃ、明日登城するがよい。」
 「前田侯がで御座りまするか!身に余る名誉、明日は必ず登城いたしまする。」
  
三 興正拝領
 翌日、名村は登城した。通常師匠の添田宗太夫と一緒であったが、この日はなぜか、名村一人であった。いつものように、前田侯と飛車落ちで指し始め、局面は終盤となっていた。
 「参った。」前田侯の善戦及ばず名村の勝ちであった。
 「そちとは飛角交、添田とは飛車の手合のわしじゃが、添田には飛車で勝てても、その方には勝てぬ。いつの間にか師匠を追い抜いたの。」
 「勿体無いお言葉でござりまする。」
 「その方が江戸に行くに当って、褒美を遣わす。この興正をとらす。」
 「お、興正でござりまするか?この名刀を私に下さると、仰せで?それはあまりに勿体無い、お受けできませぬ。」
 固辞する名村に向かい前田侯は静かに語り始めた。
 「名村よ、七段を望みその方、争い将棋までするという、この意味が解っておるか?勝てばいずれ宗看名人とも戦うこととなろう。将棋家に逆らうことは、御公儀に逆らうも同じ。そして、そちは外様一の加賀藩のお抱え棋士よ。ことは御主個人では済まぬ、御公儀と外様大名との争いよ。わしも江戸に行きそちの将棋を見たいが許されぬ身の上よ。ならばこの興正を対局中は片時も離さず、興正に見せてやってくれ、興正手元にあらば、たとえ敵中にありといえども、わしと一緒よ。わしにもそちの将棋を見せてくれ。」
 「ははあ、有難く拝領つかまつる。」
 いつしか熱いものがこみ上げてくる、名村であった。

四 名村角落ちに破るる
 江戸に出た名村は前田侯拝領の興正と共に、将棋を勝ち続けた。享保二十年四月十七日には伊藤家の師範格である有浦印理に右香落とされで激戦の末これを破り、残すは名人宗看だけであった。最初、在野と将棋家との争い将棋は認められなかった。ある意味では当然である。何故なら、もし宗看が破れれば名村の昇段を認めざるを得ず、将棋家の権威の失墜、引いては幕府の権威の失墜にもなるからである。実現不可能かと思われたが意外なところから救いの手が上がった。それは誰を隠そう、時の将軍で愛棋家であった八代将軍吉宗の調停であった。吉宗の調停により名村と宗看の争い将棋は角と左香の二番一組で、先ず最初の一番を享保二十年五月十五日に角落から指されることとなったのであった。
 対局は十五日から十七日まで、三日間も行われた。最初名村が三筋から急戦を仕掛けたが逆用され、受けに廻らざるを得なくなり、以下名村本来の力を発揮する前に敗れ去ったのであった。絶対有利と云われた角落を落とした名村は失意のどん底に突き落とされ、直指されるはずであった左香落ちを病気を理由に延期を申し出たのであった。宗看もこれに対し快く延期を受け入れたのであった。その日から名村立摩の姿は江戸から消えたのであった

五 隅田川の狐火
 名村立摩が人前から姿を消したのは、偏に将棋の為であった。昼は宿で研究し続け、夜は墨田川に船を浮かべて沈思黙考。その船の灯火がまるで狐火のようであったと伝えられている。名村の悩みは宗看の強さを知り勝ち目の薄い左香落をいかに戦うかであった。今日も隅田川に浮かべた小船の中で苦悶する名村。
 「宗看の三五歩から三二飛とする指し方の対処が解らぬ。三四飛とまでされると端からも仕掛けられず不利になるばかり、、、。どうしたものか。」
 今の香落では石田流にするのは当たり前であるが、その当時は上手四間飛車が多く、石田流を目指す指し方は当時最新の指し方であった。
 「乱戦にさえ持ち込めば、腕力で劣るとは思わぬが、どうすれば乱戦に持ち込めるのか、、、。三五の位が大きい、どうにかして位を取り返せぬものか、、、。」
 そんな日々が何日か経ったある日のこと。
 「いっそ早目に三五の位を奪還してみるか、例えば三六歩同歩三八飛のような筋で、、、。一五角があると無理だ、しかし二四歩と突き捨てたならどうだ、、、。二四歩同歩三六歩同歩二六飛、、、。」
 「二四歩は指し過ぎなのは明らか、だが乱戦に持ち込み三五の位も無くなる。これだ!これしかない!」 
 
六 宗看戦
 宗看との左香落は角落が終わった五月十七日から十五日経った六月二日に幕を切って落とされた。  

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七 名村立摩勝つ
 名村立摩は勝った。不利と思われた左香落を奇襲の名村流によって勝った。だが、名村の心の内は晴れなかった。
「所詮奇襲のまぐれ勝ち、この勝利になんの価値があろうか、、、。たとえ破れて死ぬことになろうとも、正々堂々と立ち向かうべきではなかったのか、、、。このようなさもしい性根では七段の資格があろうはずがない。」
名村立摩は肩を落として加賀へと帰国していった。
 対局が終わって数日が過ぎた。宗看の弟の看壽が宗看に問い掛けた。
「兄上、名村立摩の七段昇段の儀、いかが致す所存ですか。角落に破れている故、昇段させなくても良かろうかと存じまするが、、、。」
「名村に七段を許そうと思っておる。」
「何故でござりますか?」
「よいか看壽。棋士の本分とは何ぞ!」
「棋道精進かと存じまする。」
「それよ、後世にわしの業績を残すとすれば、既に詰物については後世に残る自負がある。だが肝心の将棋はどうじゃ、後世に伝えるべき棋譜が一つも無い。」
 ふと目を閉じ宗看は尚も語り続けた。
「先日の名村立摩との将棋は破れたが、名村殿もわしも全身全霊を傾けた、魂の籠もった将棋よ。わしが死んでも未来永劫語りつがれるであろう。そのことを思えば名村立摩の七段は当たり前、いや七段にしなくてはならぬ。」
 翌年、伊藤宗看の推挙によって、名村立摩は七段に昇段した。だが、名村流の左香落の一局以降、名村立摩の棋譜は残っていない。名村が将棋をその後指したのか、それとも奇襲で勝ったことを恥じて指さなくなったのかは、今となっては誰も知る者はいない。  


 いかがでしたか?小説名村立摩は?なんか凄く長くなってしまい、自分ながらなんで此処迄と思ってしまいます。ただ途中から名村立摩に感情移入しちゃいました。ある意味では名村立摩に書かされたという感じでしょうか。
 少し補足しますと、名村立摩は加賀出身で添田宗太夫の門人ということは解っていますが、あとの経歴はよく解りません。文中の宗看の詰物は「将棋無双」(別名詰むや詰まざるや)で弟看壽の「将棋図巧」と並んで二大傑作作品集として現在に伝わっています。
 最後に名村立摩が本当に七段になったのかについては、本によって異なっていて、角落ちに負けたから六段のままだったという本と、香落ちに勝ったから七段になったと二つあり、どちらが正しいか解りません。

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