将棋手段草

今回の特選譜は落語風です。古今亭志ん生でどうぞ。

 趣味は人生を豊かにする等と申しますが、何事も度を越すといけませんな。例えば将棋なんかは勝負事でもあるもんで、ついつい賭けたりなんかしてね。どんどんどんどんエスカレートして、賭ける物が無くなって終いにゃあ手前の女房迄賭けて、男と駆け落ちされたなんてえ頓馬な話が、つい昭和の初期まであったそうでして。
 時は江戸時代の享保年間と申しますから、今からざっと250年程前のこと、江戸に旗本の土屋土佐守好直という、お殿様がおりました。好直公は旗本の土屋主税達直の三男として生まれました。実父の土屋主税達直は吉良上野介邸の隣に屋敷がありましてね、赤穂浪士が討ち入りの際、赤穂浪士のために吉良邸に向けて提灯をかざして明るくした、という粋なお方でありました。そして常陸土浦藩九万五千石の藩主で老中にまでなった、土屋相模守政直の養子になったんですな。そして好直公の仕事が、中奥の小姓でありました。中奥というのは将軍様が実際に執務を行う所で、その当時の小姓は秘書みたいなもんでして、出世コースにのった、今でいうエリートって奴ですな。実際小姓から老中というのは柳沢吉保や田沼意次なんかが有名ですな。
 ところがこの好直公、なにより将棋が好きでございまして、普通は小姓なら幕府の重役に付け届けなんぞをして、次の老中を狙ったり出来るのでございますが、そんな暇が有ったら誰か捕まえて将棋を指す方が良いって按配で、それでも飽き足りなくて、当時の一流の将棋指しの伊野部看斎を召抱えてしまったのでありました。伊野部看斎は「看斎の三面指し」といって、水戸公の前で、彼が目隠しをして三人の相手と同時に将棋を指したと言われている程の実力者でありました。そんなある日のこと。
(以下、奥方を奥、好直公を殿、伊野部看斎を看と略す)
奥「御殿様、こちらへお座り下さいませ。」
殿「今、忙しい。」
奥「また将棋で御座いましょう、今日という今日こそ、話を聞いていただきます。」
殿「手短にの」
奥「殿はいつも将棋ばかり、そんな暇があったら、重役方に付け届けでもして下さいませ。松平様なんかは東に御重役の病気の子供がいれば、行って看病し、西に疲れた御重役の母がいれば、行ってその稲の束を負い、南に死にそうな御重役がいれば、行って怖がらなくていいと言い、北に御重役の喧嘩や訴訟があれば、詰まらないからやめろと言いという具合で、それはもう御重役の覚えもめでたいそうですのよ。」
殿「宮沢賢治みたいじゃなどうも。」
奥「それが殿ときたら、東に将棋を指す子供がいれば、行って指し、西に疲れた将棋指しがいれば行ってほどこし、南に野垂れ死にしそうな将棋指しがいれば行って看病し、北に詰む詰まないと言い争っている人がいれば、詰まらないから止めろですもの。」
殿「将棋は信長公以来、戦の陣形を見立てたものとされ、歴代の将軍様も将棋がことの外お好きじゃ、将棋は武士にとって仕事も同じじゃ。」
奥「それなら将棋の名人が老中になるとでもおっしゃるのですか?将棋なぞ指す暇があったら、御願いですから御重役との御付き合いをして下さいませ。」
段々と殿様の旗色が悪くなってまいります。
殿「よ、用を思い出した、失礼するぞ。」
奥「まだ、申し上げたいことがございます。あれ、御殿様どちらへ行かれます?まだ、申し上げたいことが、、、。お待ちくださいまし、御殿様、、。」
ほうほうのていで逃げ出すと、丁度伊野部看斎と出くわしました。
殿「おう、看斎これは良い所に来た、早速一番頼むぞ。」
看「奥方様は、よろしいので御座いますか?」
殿「奥が怖くて将棋が指せるか!ささ一番頼むぞ!」
2人でパチリパチリと将棋を指し始めました。
殿「そちと将棋を指している時が一番幸せじゃ。仕事とはいえ、中奥の宿直の時は辛いぞ、暇でしょうがないからのお。」
看「左様で御座いますか。」
殿「昼間は忙しいことが多いが、それでも手があくことがある。将軍様も手明きで、たまに将棋のお相手をする事以外に将棋も出来ぬ。そうだ看斎、人に気づかれることなしに、将棋をする方法はないものか?なんとかいたせ看斎!」
看「人に気がつかれぬようにで御座いますか、、、。そうだ、詰め物を考えるというのはどうでございましょうか?小さい紙に詰め物を書いておきますから、殿はそれをお考えになれば、誰にも気がつかれますまい。」
殿「おう、詰め物を解くのも、余は好きじゃ。それは良い考え。早速明日から頼むぞ!」
看「心得ましてございます。」
 殿様も殿様なら家来も家来。将棋のためならなんでもする2人でありました。そうして、看斎が用意した詰め物を書いた紙切れを持って登城するのが、好直公の日課になったので御座いました。看斎は詰め物を本から転記していたんですが、そのころは詰め物も今程沢山無い時代でございまして、数ヶ月経つと出すとネタ切れになちゃった。
殿「看斎!もう詰め物は無いと申すか!」
看「はっ、ははあ、、、。大体殿は、元々詰め物もお好きであられますので、殿の知らない詰め物自体が少ない上に解かれるのもお早いので、もう出せる詰め物が御座いませぬ。」
殿「困ったのお、、、。役目中に詰め物を考えているのが、御城で一番楽しいことなのじゃがのう、、、。そうだ!看斎その方詰め物を作れ!それを余に出せば良いではないか!これは名案!!」
看「と、殿!お待ち下さい。拙者は詰め物を作ったことは御座いませぬ!その様なご無理を申されても、、、。とても無理で御座います。」
殿「君命である!その方詰め物を作り、余に出題するのじゃ!しかと申し付けたぞ!!」
自室に戻った看斎、止むを得ず詰め物を作り始めます。すると、元々詰め物の才能もあったとみえて、すらすらと出来る出来る。看斎自身も驚くほど、しかも内容がまた素晴らしい。いわゆる詰め物の天才だったわけですな。それまでの詰め物より遙に上の内容でありました。
 次の日から好直公は看斎の詰め物を持って、登城し始めました。しかしながら、どうにも難しいものも多御座いましてね。でも解らない、答えを教えてくれ!とは言えません。プライドが許さないというやつですな。でも解らないものは解らない、一つの詰め物を数日考えても解らないことが増えてまいります。
看「殿、先日お出しした詰め物はお解きになられましたか?次の詰め物は出来ております。」
殿「もっ、もう少し待っておれ、お勤めが忙しくて詰め物どころでは無かったのじゃ!」
と御城では詰め物しか考えてないのに、嘘までついてしまった好直公はついに、看斎の詰め物を自分の詰め物として御城の他の人に出題するようになったんですな。御城には玄人はだしの将棋の腕を持った物も居りましてね、そういった連中がああだ、こうだとつつき回すと、やっと解けたりしたので御座います。御城では好直公の詰め物が大層評判になってしまったので御座います。
「土屋殿、この間の詰め物は誠に素晴らしい。拙者感服仕った。」
殿「いやいや、それほどのものでは御座らん。まだまだ、面白いものが沢山ござる。」
好直公もひっこみがつかなくなったので御座いました。
そうこうしている内に、年月が流れたある日の江戸城のお勤めが終わった後、偶然将棋が好きな人達がでくわしました。
○「そうそう土屋殿の詰め物も、とうに百番は越えているはず。拙者、これを書物にされてはいかがかと、かねてから思っておったのだ」
×「そうじゃ、あれほどの物がこのままでは勿体無い、書物にされるが良い。」
○「拙者、良い版元を知っておる、ご紹介いたすから、是非是非。」
好直公はすっかり、いい気になっちゃって。
殿「きっと書物にいたし皆様にお目にかけましょう。お任せあれ。」
と見栄まで切っちゃった。屋敷に戻った好直公は困ってしまって、遂に今までの経緯を看斎に打ち明けます。
殿「看斎!偽ってそちの詰め物を、自作と言った罰が当ってしまったのじゃ。すまぬ!」
と、将棋に負けた時以外に初めて、看斎に頭を下げたから、看斎も恐縮しちゃって、
看「殿、そのようなことであれば、殿の詰め物集として、出されれば良いだけのこと、拙者いっこうに構いませぬ。」
殿「そちの名前を載せずに余の詰め物集というわけにもゆかぬ、かといって今更そちの詰め物でした。と皆に言うのも面目無い。どうしたものか、、、。」
好直公はすっかり困り果ててしまいましたが、その時流石看斎、良い考えが浮かびました。
看「殿!碁では碁書『棋醇』という書がありまして、著者は本因坊秀和と表向きはなっておりまするが、実際は校訂者の加藤隆和殿の著述ということは、知るひとぞ知るで御座いまする。今度の詰め物集でも殿を作者として、拙者はどこかに協力者として、名前さえ載せれば良かろうかと、、、。」
殿「成る程、それは名案。では、そちは序文を書くのじゃ、さすれば、解る者にはそちの詰め物だと解るであろう。そうと決まれば早速、看斎!序文を書き、詰め物を選題いたせ!」
看「はあ、しかと承りました。して、書名はどのような、、。」
殿「うむ、そうじゃな、、、。『象戯手段草』と名づけようぞ。」
看「それは誠に良き書名。」
 てな具合で、とんとん拍子で話が進んで、享保九年(1759年)に「象戯手段草」が作者・土屋好直、序文・伊野部看斎で発行されました。出るやいなや、大変な評判になりまして、何回も版を重ねるベストセラーになったんですな。
熊さん「見たかい?『象戯手段草』てえした詰め物集らしいが。」
八さん「ご隠居の所で見たよ!えれえ難しいんだが、答え見ながら並べるだけでも面白れえ!!俺あ今までで一番の詰め物集だと思うね」
そいでもって江戸城でも評判になりましてね、鼻高々の好直公でありました。そんなある日、好直公は看斎を呼び出しました。
殿「この度の、そちの働き、余は満足しておる。」
看「ははあ、有り難きお言葉、勿体無う御座います。」
殿「そこでじゃ看斎、その方そちらの畳の淵を持て!」
看「こうで御座いますか?」
殿「そうじゃ、それでの、一、二の三で畳を上げるぞ。良いか?」
看「はあ、畳を上げるので御座いますか、、。」
殿「それ、一、二の三。」
畳を上げてみましたところ、
殿「何がある?」
看「壷がございまするが、、、。」
殿「そうであろう。その壷を持てい。」
畳の下の壷は大層重かったんですが、看斎、壷を好直公の前に持ってゆきます。
殿「壷を開けてみよ。」
看斎が壷の蓋を開けてビックリ、中には大判小判がザックザクでありました。看斎膝を叩いて、
看「成る程、殿は評判になった今こそ、御重役に付け届けをなされば、効果倍増。奥方様も喜ばれることでしょう!」
殿「何を勘違いしておる!この金は奥に内緒でヘソクリしておったもの。この金はのう、将棋の盤駒の名品或は貴重な書物が出た時に買うための金。折角の名品を商人如きにもし取られれば、『土屋様は日頃将棋、将棋というが、名品を買う程の度量が無い』と言われよう。そのように言われないようにする為の金じゃ。」
 全く困ったお殿様もいたもので、それだけの努力を役目に向ければ、老中にでもなれたことでしょうね。で、尚も続けます。
殿「この壷を持ってこさせたのはの、そちのこの度の働きが見事ゆえ、褒美を取らそうと思ったのじゃが、人目については奥の目もあることゆえ、余のヘソクリから褒美を取らせる。壷からいくらでも持って行くが良い。」
看「勿体無いお言葉、拙者自分の詰め物が評判になっているだけで満足でござる。」
殿「そちが良くても、余がよくない!君命じゃ、褒美をとれ!」
君命で褒美を取れとは変わった殿様もいたものですが、止む無く看斎壷の中を覗き込んでしきりに壷をかき回します。怪しんだ好直公が
殿「何をしておる、何を、、、。ごそっと掴んで持って行け。」
看「それが殿、拙者褒美は銅貨一枚で良いので探しておるのでござるが、中身が金貨・銀貨ばかりで、銅貨がござりませぬ。」
殿「当たり前じゃ、褒美は将棋だけに、金・銀だけで(どう)銅ということはない。」


 本稿は本来棋譜なんですが、やはりここは「象戯手段草」からの詰将棋をのせてみます。その内第七十七番を載せてみました。この作品は、かの山田道美が解けなかったと言われています。そんなに難しいとは思えませんが、盲点に入ってしまったんでしょうね。皆さん解けますか?但し、詰将棋マニアの人は素通りして下さい。恐らく知っている作品でしょうからね。

 実は、享保九年に発行されたものは、「象戯手段」で草が無いと言われています。享保十三年出版されたもので初めて「象戯手段草」となったそうです。しかも享保十三年に発行されたものは、発禁になってしまったらしいです。それは当時は著者名を曖昧にすることは、禁書令で禁じられてており、享保九年版では土屋好直が作者だと前文に出てくるのですが、享保十三年版では或太守とされているからと言われています。
 伊野部看斎の指将棋は結構残っているのですが、私は所持していないので、入手したら紹介したいと思っています。伊野部看斎は出雲出身の五〜六段で当時の民間棋士としては森田宗立・添田宗太夫・名村立摩と並ぶ指し手であった。後、前述の「看斎の三面指し」は鳥江正路の「異説まちまち」に出ている逸話である。もう少し詳しく抜粋してみよう。
 「あるとき、看斎は水戸公に召されて将棋をご覧に入れた。御前に盤を三面置き、三人を同時に対戦者とし、看斎は次の間に控えて指し手を聞いて、戦を進めるのである。看斎は見事に役目を果たし、午後二時頃退出した。後日水戸公は看斎を召して過日の対戦の模様を尋ねた。看斎は一番の詰め手はかくかく、その次はかくかくと三番とも言ってのけた。公はひどく感心した。ために看斎の名は一躍上がった。世に「看斎が三面さし」というのはこのことである、、、。」
 まあ、私の知ってるアマでもそれくらい出来る人がいますので、棋力は棋譜見ないと解らないですけど、、、。看斎はカルタ遊びも凄かったらしくて、次の逸話もあります。
 「カルタを一通り見て切って撒いた所、何々と覚えている。また切り直して撒いても何々と知っている。三べんまでは勘で解ると言ったそうだ。」
こうなると、お前は手品師か!と言いたくなりますねえ。
 ところで、前後しましたが、前述の落語は100%近く私のオリジナルです。今までの話は昔の逸話を脚色した程度ですが、今回は考証的にはいい加減ですので、真面目に受け取らないで下さい。
 古今亭志ん生なんて知らない人ばかりでしょうけど、知っている人に雰囲気が出ていると思われたら成功ですねえ。 
ではこの辺で、お後がよろしいようで、、、、、。 

附記:禁書になったというのは、将棋月報(昭和十七年一月号)に今田政一氏が禁書説を書いたのが始まりだそうで、その根拠も明示されておらず、且つその後もそれを裏付ける資料が見つかっていないそうです。須賀源蔵氏が当時の禁書リストを調べても無かったそうなので、本当に禁書になったか疑問です。(将棋めいと14号による)

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