プロジェクトX〜挑戦者達 将棋は誰のもの?大阪棋界を再生せよ!

 今日のプロジェクトX〜挑戦者達は、江戸時代の享保年間(1716年〜1736年)に大阪ひいては庶民の将棋の繁栄を作り出した男達の話であります。では、再現小説をお読み下さい。  





鴻池

福島






鴻池一同鴻池

百助

鴻池





福島



百助

福島

  時は享保年間場所は大阪の鴻池家の屋敷に鴻池一門、福島萬兵衛、長崎傳左衛門、平野屋茂右衛門、近江屋藤八という当時の大阪棋界の実力者であり、かつ大商人である者達が集っていた。その片隅にはこの物語の主人公である筑前百助が座っていた。大阪一の大商人、鴻池が口火をきった。
「以前より、我らの間で検討してきた件について、最終決定するために、今日は皆に集ってもらった。では福島さん、今日までの経過をもう一度説明して下さい。」
「知っての通り、京から江戸に将棋家が移ってから50年以上経ちました。その間将棋家は幕府に取り入ることに奔走し、今の二代目伊藤宗看名人となって江戸は空前の人材を輩出しております。その一方で我々町人に対する普及がおざなりになってきております。この大阪においては江戸から取り残され、定跡も一昔前のものが横行し、江戸の将棋家に対抗する人材はここにおられる筑前さん以外、皆無になってしましました。そこで、ここにおられる筑前百助殿を皆でお金を出し合って、江戸に将棋の修行にいってもらい、より一層強くなって帰ってきていただくと共に最新の定跡を持ち帰っていただく。というのが今までの経過でございます。」
「ご一同異議はございませんね。」
「異議なし!!」
「では筑前殿行ってもらえますな。」
ここまで押し黙っていた筑前百助が口を開いた。
「福島さんといった実力者もおられる中で、私に大任を任され見も引き締まる思いであります。皆様のご期待に添うべく江戸で修行してまいります。」
「では、筑前百助殿に江戸に行ってもらうこととします。では議事はここまで、あとは当家の宴会をお楽しみ下さい。」
ここに集った男達は憂いていた。名人・宗看の隆盛を聞くにつけ、それが民間に向いていないことを。今大阪の将棋人口は増加しているにもかかわらず、一流の棋士がおらず、良い指導者が居ない。このままでは、大阪棋界の灯が消えてしまうのではないかと、、、。宴会もたけなわになったころ、大阪棋界NO2の福島萬兵衛が大阪棋界NO1の筑前百助に話かけた。
「宗看名人が将棋の権威を高めるのに、幕府に取り入るのは解る。だが、門弟を諸国に派遣する位はするにしても、支部のようなものを、少なくともこの大阪につくるべきではないか!元々将棋家は京の出自、その京ですら今顧みないのはいかがなものか?筑前さん、あなたには江戸にいって修行して、名人を倒すくらいになって帰ってきてもらいたい。江戸の最新の門外不出の定跡も持ち帰ってもらいたい。」
「三蔵法師じゃあるまいに、門外不出の定跡を持ち帰るというのはおおげさですね。だがこの筑前百助皆様の期待を背負うからには、死ぬ気で修行し強くなって戻ってくることを、お約束いたしましょう。」
「それでこそ筑前さん。私達も筑前さんの居ない間、大阪棋界を守り切磋琢磨しておりますから、安心して修行して下され。」
皆の思いはただ一つ、将棋は家元だけのものではない、むしろ我々町人のものだ、大阪棋界の灯を消すな、と、、、。その思いの前には大商人も職人も農民の違いも無かった。あるのは将棋に対する思いだけであった。


 こうして筑前百助は江戸に向かう事になったわけである。ところでこの筑前百助とは、いかなる人物であろうか?時代をこの旅立ちから更に遡ること10年以上前の筑前に移すことにする。  













海賊



五郎蔵


五郎蔵




百助

五郎蔵
 筑前の百助は筑前の国(福岡県)長者町(夜須町)に生まれ、十一歳より将棋に傾倒し、同町の虎御前の宮へ日参して将棋の上達を祈願した。それからだんだん強くなったが、田舎ではこれ以上強くなれないと思い、江戸は無理でも、せめて大阪に行って、名のある棋士の弟子になって学びたいと望んでいた。だが、彼には年老いた両親がおり、子供ながら両親を助け生業に暇なく、近所でも評判の孝行者でもあり、故郷を離れられずに将棋に対する思いを胸に虚しく日々を過ごしていた。ところが十八歳の時両親が流行り病であいついで亡くなり、何の気兼ねも無く日頃の望みを達成すべく、家財を一切処分し、知人に別れを告げて瀬戸内海を商船に便乗して大阪に向かったのであった。
 備後の鞆の津付近まできたある夜のこと、その時、百助は「海賊だ!助けてくれ!」という声で目が覚めた。程なくして一目で賊と判る男達によって船室から甲板に引き出されたのであった。同乗していた商人達は命あっての物だねとばかりに、金品を差し出していた。だが、百助は船に乗るのが精一杯で、金品等は無いに等しかった。百助に金品が無いのを悟った賊の一人が言った。
「この小僧何も持ってないぞ!お宝をこいつからだけ貰わないのも示しがつかない、いっそ海に叩きこもうか?」
百助は今更じたばたしても始まらないと思い、海に投げ込まれれば泳いで大阪まで行くまで、と覚悟を決めた。その時であった。一際眼光の鋭い男が現れて言った。
「なかなか肝の据わった小僧だ、気に入った、お前は一緒に来い。」
男の名は鞆津の五郎蔵と言って、この辺りの海賊の頭目であった。筑前百助は、こうして海賊の捕虜となって、沖合い遠くに連れ去られてしまった。
「お前は年が若いから俺達の仲間になれ、手始めに炊事の手伝いをしろ!」
 こうして心ならずも数日間船にいたある日のこと、海賊達が風待ちの際に将棋を指し始めて時間つぶしをしているのを見て、こんな状況でも好きな道故、百助も側から窺い見ると、何れもヘボ将棋ではあるが、五郎蔵だけは中々強く、他の海賊達を片っ端から負かして天狗になっていた。それを見ると百助はいてもたってもいられず
「私が一番お相手いたしましょう。」
と言って対局を始めた。程なく平手は百助が勝った。
「お前中々強いな。今度は飛車落でやろう。俺が今まで捕まらないのは、無理な勝負をしないからよ。平手で勝てないのが解らない程馬鹿じゃないつもりだ。」
飛車落は五郎蔵も最初から本気を出し、熱戦となった。

(図は五郎蔵二六角迄の局面)

五郎蔵


五郎蔵


五郎蔵
百助



五郎蔵


海賊
五郎蔵

五郎蔵

百助
五郎蔵
(随分紛れたが、二六角がピッタリのはず。ここで相手は三六歩しかない。そうであるなら、同銀・同香・三三歩成・同金・四五桂でまだ勝てるぞ)
その時百助の手が桂馬に伸びた。次の瞬間盤面には二五桂が指されていた。
(おお!そうか取れば三七銀の両取り。取られそうな桂を捌く何たる妙手!この小僧何者だ?只者じゃないぞ。)
以下も五郎蔵も必死に食い下がったが、百助の的確な指し手の前に投了した。
「負けた。小僧、お前は将棋の神様だ。名は何と言う?」
「私は筑前長者町の百助という者で、子供のころから将棋で身を立てることを志し、両親がこの流行病で亡くなったのを切っ掛けに、この度大阪に出て修行するつもりで此処迄来たのだが、貴方達の為に囚われ、その志しも達成し難く誠に残念です。」
と言ったところ、五郎蔵は大いに驚き言った。
「ああ、お前が百助であったのか!お前が子供のころから将棋に熱心だとの評判を、俺もよく聞いていた。たしかお前は親孝行であることも聞いている。海賊でも情けというものは知っている。お前の親孝行に免じて、その志しを叶えてやるから、早速大阪へ行くが良い。」
「親分そいつは危ねえ。親分はお尋ね者なんですぜ、港に船を近づけるのは危険ですぜ!!」
「馬鹿野郎!!役人が怖くて海賊が出来るけえ!俺自らが小船を港の近くにつけてやらあ!」
海賊船から小船に五郎蔵と百助が乗り、港の近くへと船をつけた。
「百助よ、ここでお別れだ、餞別だ取っておけ。」
五郎蔵からお金を渡され、船に乗る前より却って旅費が増えたのであった。
「親分もお達者で。」
「いずれは野垂れ死にか刑場の露だ。お前が名人になれば、あの世で自慢が出来る。強くなれよ。あばよ。」
小船はみるみる内に遠ざかっていった。
百助はようやく大阪へ行くことが出来たわけだが、この時のことを親孝行と将棋の徳のおかげだと言って、常々人々に語ってきかせたそうである。



福島


百助


百助
「ではここでゲストをお迎えいたしましょう。筑前百助さんと、福島萬兵衛さんです。」
「先ず、福島さんにお聞きしましょう。筑前さんが大阪棋界に現れた時は、どうだったのでしょうか?」
「彗星が現れたという感じでした。あっという間に諸先輩に追いつき抜き去ってしまったのです。」
「その時から大阪いや関西棋界は福島・筑前時代となっていったのです。将棋の会合では常にその2人が優勝を争うようになったのです。」
「それはですね、当時関西では仲間内の馴れ合い将棋が横行していて、手合違いでも平手が多かったことも原因なのですよ。適正な手合で競り合わなくてはお互いに進歩が無いわけです。」
「江戸へ関西を代表して行くことについては、どう思われましたか?」
「再現にもありますように、当時の大阪には強い中心人物が居ませんでした。つい50年前までは、家元を脅かすような存在が輩出していたのに、今や地盤沈下が著しかったのです。矢張り強い棋士がいてこそ隆盛が保たれ、将来にも繋がるのですが、その点では危機的状況でした。矢張りここは私が江戸へ行って修行して、江戸の技術を盗んでくるしか無いと思いました。」
「当時の将棋は江戸への一局集中でありました。まさに大阪の将棋の灯が消えようとしていたその時、江戸へ筑前百助は行ったのでありました。それでは、また再現小説をお読み下さい。」





百助















福島













百助

主人

百助

主人


百助

主人



百助

百助

百助
主人
 1.江戸修行
 筑前百助は正月に大阪を出発し、江戸に着いたのは三月ごろのことであった。当時江戸に初めて行ったものの常で、百助は初めて見る江戸の繁栄に目を丸くした。ここに来て初めて明るい世界に出会ったように思い、江戸中を彷徨い歩いたのであった。江戸の花までもが華やかに見えた。
「陰気な関西の桜にくらべて、花まで江戸の花は陽気なのか。」
彼はそんなことも考えながら、江戸城の堀近くを歩いていた。江戸城の壮麗さに圧倒されると共に思ったことは、二代目伊藤宗看の繁栄ぶりであった。大阪に居る時から宗看の名声は理解していたつもりであったが、江戸に来て彼の偉大さをまざまざと見せつけられたのであった。
 江戸に来て初めて自分の力が解った。大阪に居て、あの小さな世界にいてこそ自分は認められたのだ。広い江戸に来ては、自分の存在がいかにちっぽけなものであったのか思い知らされた百助だった。
 田舎将棋の自分を根幹から建て直し飛躍するのは江戸しかない。と、決意を新たにした百助の精進は凄まじかった。江戸の道場という道場に通い詰め、棋書を買いあさり研究をする毎日であった。
 やがて春も過ぎ夏も過ぎ、半年が過ぎ去った。
 筑前百助の進歩には目覚しいものがあった。元々、底力があった上に洗練された定跡を取り込み、厳しい手合に取り組んだ彼の進歩は、彼を知る全ての者が驚嘆する程であった。この彼が江戸で仕入れた定跡や棋書と共に大阪に戻れば、彼を盟主とする関西将棋は、異常な興奮の元に湧き返る様な人気を呼ぶであろう。秋になり、そんなことを思いながら大阪に帰ることを決心した百助であった。
 2.大阪の萬兵衛
 そのころ大阪では、福島萬兵衛がこれまた決死の思いで精進していた。
「私は大阪を離れられないが、筑前殿をただ待っている訳にはいかない。大阪にあって精一杯努力をして、強くなった自分と対戦してもらいたい。少なくとも香車は落とされないようにはしたい。」
福島萬兵衛は将棋の鬼になった。大会でも駒割りを主張し、厳しい手合で自ら指し、棋書も江戸から取り寄せ、おまけに大枚をはたいて、江戸から家元の師範格の棋士まで呼び寄せ研鑚したのであった。そのかいあって、大阪で萬兵衛と平手で指せる者は勿論、香落ちで指せる者すら殆ど居なくなっていった。
 3.桑名にて
 話は再び大阪へ行く道中の筑前百助に戻る。行きの時と違って、帰りの東海道は足取りも軽かった。一刻も早く大阪に戻りたかった。そして大阪に間近の桑名の宿に泊まった時のこと。百助は駒音で目が覚めた。そうなると、居ても経っても居られず駒音の方に行くのは、将棋指しの習性である。その駒音のする部屋には五・六人が宿の主人と盛んに勝敗を争っていた。百助が入室しても熱中して気がつかないようであった。どうせ田舎のヘボ将棋だろうと見ていると、主人は桁違いに他の者より強かった。廻りの者が見かねて助言をしても、全く無駄であった。勝負が一段落つき、煙管を美味そうに吸っている主人に向かって、百助は話し掛けた。
「ご主人、中々お強いようですな。一つ私にもご教授願えませんかな。」
宿屋の主人は急な侵入者に驚いたが、それが泊まっている客だと知ると。
「いやあ旦那、教えてくれと言われても、私はただの田舎将棋。ご覧になれば解るように、全くのヘボ将棋。」
「ご主人、そう謙遜なさらずに、まあ一番御願いします。」
主人は何故か困惑の表情をしていた。
「他の若い衆も指したがっていますので、失礼ですがもう暫くお待ちください。」
百助としても挑戦して主人を負かして、他の人達も驚かせようという気持ちもあり、こうあっさり断られてはひっこみが付かないのであった。
「それでは、ご主人は私と指すのが嫌だとおっしゃるのか!」
多少声を荒げてしまった百助だった。
「そういう訳じゃございませんが。若い衆が指したがってもおりますし、それに実は私らの将棋では、只ではどうも指さない訳でございまして、、、。」
(成る程それで解った、この連中は賭け将棋しか指さないということか、、、。)やっと得心のいった百助が言った。
「じゃあご主人、印を乗っければ指す訳ですか?」
百助は相手の返事を待たずに胴巻きから旅用の金子をいくらか取り出した。
「さあ、これでいくらでも指せますな。是非お相手御願いしたい。」
こうまで言われては宿の主人も断れず、勝負は始まった。
(江戸で修行した私が田舎将棋の親爺が相手では、相手になるまい。)
(相手はただの旅人、いくら指すといっても私もこの近隣では知られた指し手、負けてはみっともないし、一つ天狗の鼻を折ってやるかな。)
とまあ、お互いに胸中は天狗なのであった。
 真剣勝負ではお互いに千軍万馬のつわもの同士、先手の主人は序盤でいきなり四間飛車を指してきた。当時は先手での振り飛車は損であると思われていたので、すでに定跡外の戦いであった。双方必死の攻防戦の末主人に凱歌が上がった。以外な主人の手強さに百助は続けて連敗し、都合四連敗してしまったのであった。
 百助はその早朝宿を発った。大阪へではなく再び江戸へ向かう為であった。
 4.再び桑名にて
 百助は江戸に戻り、更に精進し一段と飛躍し、再び桑名のあの宿へと着いたのは次の年の九月の半ばころのことであった。
 宿の主人は相変わらず土地の若い者達を翻弄していた。その前に颯爽と現れた百助は前回とは異なっていた。今の百助の前には、最早宿の主人は相手ではなかった。宿の主人を圧倒した翌日、いよいよ大阪へと旅を急ぐのであった。


百助
「修行して格段に強くなったはずの百助さんが、何故宿屋の主人に負けてしまったのでしょうか?」
「恐らく最初に対戦した時も大駒一枚の違いがあったのですが、当時の私は田舎の将棋から江戸に出て、定跡を知ったわけです。格言にも定跡を覚えて弱くなりあるように、宿屋の主人は定跡無視の将棋に対して江戸で覚えたばかりの定跡で立ち向かったため、力が発揮出来なかったからです。つまり定跡を上面ばかり覚えて自分のものに消化していなかったのです。」
「さあ、江戸で二年近く修行したその後の百助さんを、最後の再現小説でお読み下さい。」



 江戸で修行した筑前百助は、関西において絶大なる歓迎をうけたのであった。そして、筑前百助が帰ってきたことを記念して、京都養壽院の山脇道作宅で大掛かりな将棋大会が行われたのは享保十七年の十一月十八日のことであった。当日は一目百助も見ようと、関西中から人が集った。そんな中で大会は当然の如く、百助は勝ち進んだ。そして決勝の相手は誰あろう、百助不在の間無敵であった福島萬兵衛であった。


 こうして大阪復帰を飾った筑前百助であった。この後の関西棋界は京・大阪を中心に、江戸とは別の発展をして行くこととなった。即ちアマチェア将棋のパラダイスとなっていったのであった。この後同時代の素人棋客の鈴木元将は実戦集や定跡書を多数出したし、福島萬兵衛も有名な「象棋珍手選」という定跡書を出版し、将棋の啓蒙に努めた。「象棋珍手選」は初めて六枚落ちからの定跡を載せたことでも有名で、以後天野宗歩が「将棋精選」を出版するまで、六枚落〜四枚落の定跡が載った本は出なかったのである。(その頃の定跡書は二枚落からしか書かれていなかった。)
 江戸の家元の影響を離れ、独自に発展して行った関西棋界の江戸を追いかけ追い越せの対抗心は、江戸時代が過ぎ江戸が東京となり、昭和時代になる迄続いていたのであったが、その時の基礎を作った人たちが昔居たことを忘れてはならないであろう。



 というわけで、小説は終わりました。先ずこの小説を書くにあたって、土居市太郎の「古今名局詳解」と飯塚勘一郎の「将棋名匠の面影」から可也引用したことをお断りしておきます。何分ローカルな人物なので、書こうとすると、同じ様な内容になってしまいます。
 次に史実に付いて述べますと、大阪の棋客が金出して江戸に筑前百助を修行させたというのは創作で、事実は筑前百助が江戸に行って、修行して大阪に戻ってきたという事実だけです。ただ何故江戸にそのまま居ないで大阪に戻って来たのか疑問で理由を小説のようにつけてみました。また鞆津の海賊の名前は実際は不明です。他の逸話は伝えられている通りに書いていますが、逸話自体が出来すぎなので、本当かは非常に疑わしくはあります。また飛車落の将棋は天野宗歩対平居寅吉の将棋を引用しています。
 この後も筑前百助と福島萬兵衛は死等を繰り広げますが、平手では筑前百助に勝てなかった福島萬兵衛も香を落とされては負けなかったそうです。土居市太郎は筑前百助について、現代でも六段以上の力量があるだろうと言っています。そしてこの両者の差について土居市太郎は次のように述べています。「双方の実力は大体互角のように思うが、先手方の百助は幼い時から棋に志し、艱苦して勉強しただけ萬兵衛よりやや優っている。」と。
 兎に角この逸話が事実なら、筑前百助という人物は波乱万丈の人生を送った人であり、大阪にあって江戸の棋客に唯一対抗出来る人物として気を吐いたことは確かです。そして彼を中心として関西棋界が廻った時期もあったわけです。でもそんな人物でも家元関係の人物でないと、棋譜すらそんなに残っていないのは非常に残念なことです。(でも彼らは、まだ残っている方ですけどね。) 
 最後に「プロジェクトX」というよりも、「その時歴史が動いた」みたいな仕上がりですねえ。

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